NARC通信 第31号

NARC通信 第31号

平成22年12月25日発行


東チモール特集

東チモールへの旅

足立久美子

私がお世話をしているJICAの日本研修「漁村開発におけるジェンダー主流化」に、東チモール
から研修員が参加しました。私は、彼らの「21世紀にできたばかりの新しい国」という言葉に
強く引かれました。昔はポルトガルの植民地で、第二次世界大戦で日本に2、3年占領されたそ
うです。その後は、インドネシアになりましたが宗教が違うことで、とてもひどい状況だった
そうです。平成22年の研修員であるエルフリーナさん(25歳)の、「10歳くらいのときに戦争
が始まり、両親に見送られて飛行機でインドネシアへ逃げた。逃げる理由はわからなかったけ
ど、景色がすごいことになっていたのを覚えている。両親は子供達を逃がしたあとに、車でイ
ンドネシアまで脱出した。私はインドネシアで育ったので、実は東チモールのことをあまり知
らないし、東チモールの言葉(テトゥン語)も上手ではない」という話を聞き、ショックでし
た。わずか15年程前の出来事です。エルフリーナさんは子供っぽいところがあり、研修旅行で
岩手県に行ったとき、雪を見て研修員の中で一番感激してはしゃいでいました。「あなたの国
へ研修のフォローアップで行く」と言ったら、「ぜひ来てください。メールで連絡取り合いま
しょう」と帰国の時にしっかり約束しました。

私と一緒に研修のお世話をしている永澤さんと東チモールへ行くことにしました。エルフリー
ナさんに連絡したらすぐに私達の調査計画を作ってくれました。エルフリーナさんが忙しくて、
全行程を一緒に動けず残念でしたが、首都から2時間離れたアタウロ島へは一緒に行くことがで
きました。30キロほど離れた島ですが、小さいフェリーで、しかも予想以上にうねりがあって
少々不安になりました。島は天国のように美しい海に囲まれていました。水産局の指導で5年ほ
どまえから海藻養殖が導入されました。歩いていける程度の浅瀬に小さな海藻を挟み込んだロー
プを浮かせて養殖する方式です。ロープを設置したら、後はゴミをとる、収穫するという作業だ
けで比較的楽な養殖です。労働力も少なく安定した収入が得られるのでいろいろな地域で導入さ
れています。通常は、家業で養殖をしていますが、島の女性達が「女性グループで海藻養殖をし
たい」といい、水産局の支援もあって女性海藻養殖グループができました。私達が行ったときは、
活動を初めて2ヶ月くらいでしたが、「出荷して収入を得た、うれしい」と話をしてくれました。
東チモールは、クリスチャンがほとんどなので、いたるところに教会がありそこが集会場も兼ね
るようです。女性達は教会で、手作りの料理で私達をもてなしてくれました。ココナッツで炊い
たご飯、魚、シンプルな始めての味でした。独立戦争で傷ついた人達だと思いますが、そういう
悲しみを感じさせないくらい力強い女性達でした。

アタウロ島へのフェリー、車が 4台載る

海藻を収穫したカヌーと永澤さん

海藻養殖をしている女性たち


エルメラ県のチモール・コーヒー

永澤雅子

東チモールは熱帯に位置し、チモール島の東半分を占めています。国の西側はインドネシアと国
境を構えていますが、あとはすべて周りを海で囲まれています。四国くらいの大きさで、南部地
域は海岸線から20〜30キロくらいの平地がありますが、首都ディリのある北部沿岸地域には平地
が少なく、海岸の後背地にはすぐ山が控えています。ですからディリ市から南を望むと、サンゴ
礁の南の島というイメージではなく、山岳地域にやってきたという印象を持ちます。最高峰はラ
メラウ山で2,963m、他にも2,000メートル級の山がいくつかあります。

6月22日朝、私たちはディリの南西にあるエルメラ県に向かいました。同行者は東チモール水産
局のドミンゴ氏ほか2名。ドミンゴ氏はエルメラ県出身で地元の情報に詳しい人です。ディリ市内
の暑さに辟易していた私は、涼しい高地に行くのを楽しみにしていました。なにしろ、地元の人
が「あそこはとても寒い」というくらいですから。山道に入ると、緑の豊かさに気がつきました。
前日ディリの東側にあるバウカウ県に行ったときに見かけた山が赤茶けた岩肌がむき出しになっ
ていたのとはずいぶん違います。そして高度が上がるにつれ、植生が変わってきます。低地では
椰子の木のようなものばかりだったのが、葉の大きな木、非常に背の高い木、木のてっぺんがテー
ブルのように平らになっている木など、さまざまな種類の樹木が見られるようになりました。緑
の色合いもそれぞれ異なっています。曲がりくねった山道を30分も走ると、沢のあるところに着
きました。あたりは高い木々に囲まれ、空気はかなりひんやりしてきました。ここはトイレ施設
などもあり、ちょっとした休憩所になっています。バス停も兼ねているようです。首都からエル
メラ県の中心エルメラ市までは、交通機関(大きめのバンやトラック)が通っているとのこと。
数人の子供が大人と一緒に、このあたりで採れた野菜、山菜などを台の上に広げて売っていました。
タロイモなどの根菜類、蔓のついた葉物、そして穂先だけを食べるというワラビに似た山菜も。
日本のミカンとそっくりなものがありました。これはこのあたりに自生しているとのことです。
さっそく買って食べてみました。味も日本のミカンと変わりません。早生ミカンのような爽やか
な味わいでした。私はディリ市内でもミカンを買ってみたのですが、残念ながら山の中で食べた
あの新鮮な味とはほど遠いものでした。週末でもないのに子供たちが午前中にこのようなことを
していて学校はどうしたのだろう、と疑問を持ちましたが、前日訪ねたバウカウ県では二部授業
制をとっていて、授業を受ける生徒が午前と午後に分かれている、と聞きましたので、多分この
県でも同じなのだろうと、自分を納得させました。ミカンを買う時に、ちょっと値切り交渉をし
てみましたが、子供たちはただ定価を言うだけでした。はにかんだような、でもとびきりの笑顔
で私にミカンを渡してくれました。

1,000メートル級の峠を越えるころになると、道幅はさらに狭く対向車両とすれ違うのもやっと、
という状況になりました。エルメラ県を通って北海岸と南海岸を結んでいるのはこの山道しかあり
ません。道沿いに赤い実が目に付くようになりました。これがチモール・コーヒーです。標高が高
く涼しい気候はコーヒーの栽培に適しており、ポルトガルの植民地時代に栽培がおこなわれて以来、
コーヒーの栽培が盛んです。コーヒーはこの国の主要な輸出品です。農民がコーヒー農地を所有し
ているそうで、乾季の収穫時期ということで、子供も含めて家族総出で摘み取り作業をしている最
中でした。小さな子供がコーヒーの実を摘んでいる姿を見たときに、「児童労働」という言葉が頭
をよぎりました。中米グァテマラで、フィンカと呼ばれる大規模なコーヒー農園で子供たちが一心
不乱にコーヒーの実を摘んでは、首から提げた大きな袋に入れていた姿とダブって見えたからです。
コーヒーの木は2−3mくらいなので、下の方の摘み取りは子供でも十分出来るのです。しかしそれは
杞憂でした。私が「コーヒー・プランテーション」という言葉をうっかり口にしたときに、現地の
人々からいっせいに「No, no」と言われてしまいました。植民地時代を思わせる言葉なのかもしれ
ません。現在は自分の農地でコーヒーを栽培しているcoffee farmerと呼ばれる自作農がいるだけと
のことです。余談になりますが、児童労働にはchild labour と child work という2種類があり、
家事労働や家業の手伝いはchild workと呼ぶという考え方があるそうです。そうするとここで家族
と一緒にコーヒーの実を摘む子供たちはchild workをしていることになるのでしょう。地元の人に
よれば大変なのは収穫だけで、あとはまったく手がかからないそうです。コーヒーの赤い実を食べ
たヤギなどの小動物が農地のあちこちに種をまく役割をするので、うまい具合にコーヒーの木は勝
手に育っていくとのこと。唯一気をつけることは、コーヒーの木が直接太陽の光にあたらないよう
にすることで、日陰を作る木が必要になります。そのため、コーヒー農園はたくさんの大きな木で
覆われていて、私には単なる雑木の生い茂った山としか見えませんでした。エルメラ県にはその日
蔭となる木の苗を育てている政府の研究所がありました。どの木が効果的かの研究のようです。
shading treeと書いてありました。ドミンゴ氏によると、アカシア類とのことでした。ちなみにこ
のようにして栽培されたコーヒーはshade grown coffeeというそうです。摘み取ったコーヒーの実
は袋に入れて道路際に置いておくと、集荷人がトラックでピックアップしていき、その後加工され
ます。出荷価格はコーヒーの赤い実が1ドル/キロ程度、果肉を取り除いた状態の豆が2〜3ドル/キロ
です。shade grownであること、肥料などを使用していないこと(幸か不幸か、コーヒー農家は肥料
などを買う余裕がない)、手摘みで天日干しであることなどから、オーガニック・コーヒーとして、
最近世界中の多くのNGOがチモール・コーヒーのフェア・トレードにかかわってきているようです。

エルメラ市の中心には市場と数軒の店とバスターミナルがあり、人がたくさん集まっていました。
そこから車で15分ほど行ったところに、ドミンゴ氏の実家があります。ドミンゴ氏の実家もコーヒー
農家で、60代後半の両親は今でも末の息子と一緒に農園で働いています。コーヒー農地の規模も大小
さまざまなようで、本当に零細な農家もあるとか。自分の農地と隣の農地の間には柵などの区切りも
ありませんが農家の方たちはどれが自分の木かわかっているそうです。何とものどかな平和的なコー
ヒー栽培、という感じを抱きました。ドミンゴ氏の両親のお家はコロニアル様式で、白壁のポーチが
気持ちのよい空間を作っていました。このあたりには電気はきていませんが、家の横にある小さな
ソーラーパネルはドミンゴ氏が設置したものだそうです。孝行息子です。市内にはレストランがない
ので、ドミンゴ氏の両親が私たちのためにお昼を用意してくださいました。裏庭では自家消費用に
コーヒーを乾燥させていました。茣蓙の上でコーヒー豆を干していたのですが、半分はなぜか果肉
のついたままのコーヒーでした。これも焙煎してコーヒーとして飲むのでしょうか。もちろん、私
たちもコーヒーをいただきました。焙煎したての新鮮なコーヒーはさわやかな風味で、高地の涼し
い風と共に、私たちの疲れをいやしてくれました。

休息所で売っていたミカン

ドミンゴさんの御両親

ドミンゴさんが、ずーっと向こうまで父親のコーヒー園と説明してくれた

首都ディリ市のボテフリ

ボテフリという日本語があります。漢字では棒手振りと書き、ボウテフリとも読むそうです。これ
は江戸時代から行われていた天秤棒を担いで商いをする行商人のことです。東チモールの首都ディリ
市の街中で、このボテフリをずいぶんたくさん見かけました。人々が竹竿を担いでバランスを保ち
ながら歩いているのを初めて見たときは、これがこの地域の伝統的なものの運び方なのだ、と思い
ました。しかし地方に行くと頭に籠を乗せて運んでいる人を見かけましたし、南太平洋の島々でよ
く見られるような、持ち手となる部分(紐やロープ)を額で支え、荷の入った籠を首の後ろから背
中の方に提げる運び方もあるようです。ですから天秤棒は物売りの一つのスタイルと思えます。さ
すがに女性ボテフリの姿は滞在中に一回しか見ませんでしたが、男性は若い人(というか、少年)
から、結構な年配の(老人と見える)人までさまざまなものを売り歩いていました。魚、果物、
野菜、キンマの葉、果てはビンに詰めた自家製の蜂蜜まで。

しかしこのボテフリが日本の昔の物売り、あるいはアジアのほかの国でも見かける天秤棒の商いと
決定的に違うことは、天秤棒の両端には籠や桶などの容器がないということです。つまり商品は天
秤棒の先から直にぶら下がっているのです。たとえば青菜のような野菜なら根を取り除き、きれい
にそろえて束にします。それをビニールの紐で竿の先に下げるのです。野菜売りはそのような野菜
の束をいくつも竿の両端からぶら下げて、町を売り歩きます。魚の場合は尾に紐を括りつけ、同じ
ように竿につるします。イセエビもイカも同様でした。ですから、買い物客はボテフリを見ただけ
で、どんな商品を売っているのか、がすぐわかるようになっているのです。客が買うとなれば、そ
のビニール紐を切って渡せばいいのです。

ボテフリさんたちはかなりゆっくり街を歩いています。行商人ですから歩くのは当然ですが、彼ら
には歩き続けなければならない理由があります。商品が籠に入っていないので、品物を地面に置く
わけにはいきません。ボテフリさんは座り込んで商いをすることができません。つまり絶えず自分
の肩に天秤棒が乗っている状態でなければならないのです。かなりの重労働だと思いました。商品
を仕入れてから売り切るまでずっと天秤棒を担いでいるのですから。ごくまれにですが木の枝など
に棒をかけて休んでいる人も見かけました。

ディリ市内の繁華街がなんとなく整然とした感じであることに前から気がついていましたが、ここ
でその理由がわかりました。路上に商品を広げる物売りが一切いないということです。スーパーや
商店は店舗を構えていますし、市場は公設として少し離れたところ数か所にまとまっています。ア
ジアの多くの国で見かけるような路上マーケット、段だら縞のビニール・シートや竹で編んだ大き
なザルの上にさまざまな商品を並べて大声で客を呼び込んだり、子供を抱いた母親が路上に座り込
み、野菜や果物を道行く人に売っているシーンなどは見かけません。路上販売が許されているのは、
固定の場所を持たない行商の形態だけということのようです。日本でも東京(のある区)などでは、
お昼休みにビル街をカートなどを押してお弁当を売り歩く営業に対して、一か所に停まって販売を
してはいけない、という規則があると聞きましたが、それと同じようなものでしょう。天秤棒から
直に商品を吊り下げるのも、座り込んでの商売をさせないためかもしれません。

ディリ市内のボテフリは決して活気のある商いには見えません。荷を下ろすことができないためか
持ち運ぶ数量もそれほど多くなく、呼び込みの声もなく黙々と歩くのみです。売り声も規制されて
いるのかもしれませんが、街をゆく人に買ってもらうためのアピールが特にないので売る気がある
のだろうか、などと私は思ってしまいました。市内には魚市場と呼ばれる場所が数か所あり、その
うちのひとつを訪ねました。市場といってもビーチの木陰に10人にも満たない人が、個々に小さな
台を置いて魚を売っているだけなのですが公設です。ここに魚のボテフリさんが二人立っていまし
た。この魚市場にくる買い物客を待っているわけです。ボテフリが町を歩かないでどうするんだろ
う、というのは外の人の考え方で、市場の魚売りとはうまく住み分けができているのか、ボテフリ
さんたちは問題もなくここで商売をしているようでした。

援助関係の外国人がよく集まるカフェで一人のボテフリさんを見ました。山で採れた蜂蜜を詰め簡
単な栓をしたビンを天秤棒の両端に数本ずつ吊り下げ、カフェの入り口、中でもなく外でもない微
妙な位置に30分は立っていました。白髪、白髭のおじいさんで、ビンに入れた蜂蜜はたぶん彼の肩
にずっしりと重く、中心から少し離れたこのあたりまで歩いてきたとしたら、だいぶ疲れているの
では、と思いました。しかし人生のすべてを悟ったような哲学者風のボテフリさんが天秤棒を右肩
に黙って立っている姿はなんとも印象的でした。